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Author:飲茶

Title:史上最強の哲学入門

Date:土曜日 3月 10, 2018, 21 highlights

@646
人間として普遍的な真理、学問を打ち立てることは可能である」  と、真理の存在を主張することができたのである。  さて、ここでカントが偉かったのは、自らの主張に酔いしれず、冷静にその真理の範囲を限定したことであろう。カントは「真理は構築可能である」と語ったあとで、さらにこうも述べている。 「とはいえ、それはあくまでも『人間という種』にとっての真理である」
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@822
「自由とは、何が正しいのかわからないのに『好きにしろ』と放り出されてしまった不安定な状態のことである」
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@861
て、「人間は自由の刑に処せられている」もしくは「人間は自由に呪われている」
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@1027
「A を信じることが人間にとって有用性があるとしたら、 A の真偽によらず、 A は真理である」
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@1202
人間は、不確定性原理を乗り越えて、宇宙の真の姿を明らかにすることはできないし、不完全性定理を乗り越えて、数学体系を完璧なものにすることはできない。
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@1205
時代が進むごとに真理が明らかになるどころか、「到達できない真理」がたくさんあるということがどんどん示されていったのである。
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@1986
資本主義社会とは「消費経済」であるが、実は「成長し続けなければいけない」という過酷な宿命を背負っている。
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@2059
資本主義社会の成長が飽和状態に達したため「労働の価値を見失った」 という新しい「歴史的な問題」に直面した世代の人類、新しい血族
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@2519
として、「全能の神は『重すぎて絶対に持ち上げることができない石』をつくることができるか?」
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@2609
「神とは、弱者のルサンチマンがつくり出したものにすぎない」
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@2657
ニーチェは、このような、決して現実世界では勝つことのできない弱者(ユダヤ人)が精神世界での復讐のためにつくり出した新しい価値観を 僧侶的・道徳的価値観 と名づけた。
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@2672
本来の自然な価値観とは、「強いことは素晴らしい」という素直でまっとうなものであるからだ。それがいつの間にか、「弱いことは素晴らしい。力はないけど、優しいよ」という価値観にすりかわってしまい、
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@2692
だが……、どんなにがんばっても「金と権力」を得られない人たち、それを得る自信がない人たちだっている。彼らはどうすればいいのだろう? 彼らは、自分たちの、惨めな敗北者としての人生を受け入れるしかないのであろうか? いやいや、彼らは、決して負けを認めるわけにはいかない。それはあまりに惨めすぎる。だから、彼らはこう言うのだ。
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@2696
「金や権力を得たからって、幸せになれるとは限らないじゃないか……。むしろ面倒なことになるからいらないよ……」 「学歴があるからって善い人とは限らないよね」 「一流企業に入ったって、このご時勢だもの、倒産するかもしれないよ」  彼らは、「イソップ童話」でいうところの「取れないブドウをすっぱいと言ったキツネ」と同じである。そのキツネは、ホントウはブドウが欲しくてたまらなかった。実際にブドウが食べられるとしたら間違いなく食べた。しかし、ブドウは食べられない高さのところにあったため、彼は自分の都合で、ブドウの「価値」を落としめる。
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@2704
このキツネが、まっすぐに人生を生きていないことは明らかである。そして、そのうち、同じようなキツネが集まってきて、「ブドウを欲しがらないことは善いことだ!」という道徳や教義を打ち立て始める。彼らは、ずっと心の中で取れないブドウへの「恨み(ルサンチマン)」を 抱きながら、ブドウを欲しがらない無欲な自分を誇りに思うのだ。
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@2711
ニーチェは、こういった歪んだ人生を、ただの 欺瞞 にすぎないと断言する。
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@2788
ニーチェは、自らの著作の中で、終末の時代──すべての価値観が崩壊した世界──を生きる 末人 と呼ばれる者たちの姿を描写している。末人とは、何も目指さずに生きている人間のことである。彼らは、ただ健康とよき眠りだけを求め、穏便に人生が終わることを願って、なんとなく生きていくだけの存在である。
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@2916
人間が死ぬというのは、肉体を構成している原子が単にバラバラになることであり、死後の世界もなんにもありはしない、と「 唯物 的世界観」をはっきりと述べた人物でもあった。「だから、生きているうちにいっぱい楽しもうよ」と主張して自ら実践した彼は、「笑う哲学者」というあだ名で呼ばれ、
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@3052
もしかしたら、この世界は、別世界の水槽の脳が見ている夢なのかもしれない」という疑い──について、こう結論づけている。 「そんなことは証明不可能だから、考えるだけ無駄!」
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@3220
「言語とは、差異のシステムである」
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@3322
たとえば、僕らが一面の「雪景色」を見るようなものである。どこを向いても、雪、つまり「氷の結晶」でいっぱいという情景だ。だが、よく見れば、風に吹かれて、転がっている「氷の結晶」もあるし、止まっている「氷の結晶」もあるし、ちょっと固まっている「氷の結晶」もあるし、ふわっとなっている「氷の結晶」もある。だが、僕たちは、雪景色のそんな一つ一つの小さな変化など、気にはしない。その小さな変化に、名前をつけて、他と区別しようなどと考えたりはしない。ただ、一面の雪景色、「たくさんの氷の結晶がある」と見なすだけである。  それと同様、空から僕たちの世界をのぞきこむ、この異形の怪物にとっては、人間も、犬も、リンゴも、机も、石も、まったく同じ、ただの「氷の結晶」にすぎない。そして、彼が、気まぐれで手を伸ばしてその結晶をすくい取り、握り潰して形を変えたとしても……、なんの感慨も起きないだろう。それは、僕らで言うところの、雪をこねて雪玉にするのと同じぐらいの感覚である。そこに「氷の結晶」の死があるだなんて思いもしないのだ。
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