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Author:野家啓一

Title:科学哲学への招待 (ちくま学芸文庫)

Date:土曜日 12月 29, 2018, 58 highlights

@190
科学とは「さまざまな学科や科目に分かれた学問」の意味である。
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@754
リンゴを投げ出す初速度が秒速七・九キロメートルに達すると(これを「第一宇宙速度」という)、リンゴは地球を一回転して再び富士山の山頂に戻ってくる。すなわち、リンゴは人工衛星になったのである。
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@931
心の哲学の主流は唯物論的傾向が強く、基本的に「心的状態」を「脳状態」と同一視する立場をとる。たとえば「雷は放電現象と同一である」や「熱は分子の平均運動エネルギーと同一である」と同様の意味で「心的状態は脳状態と同一である」と考えるのである。これを「心脳同一説」という。
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@933
この立場からすれば、脳をもたないコンピュータは心をもちえないことになる。そこで「機能主義」の立場は、心をさまざまなハードウェアによって実現可能なコンピュータのソフトウェア(プログラム) になぞらえる。つまり、心とは脳細胞のみならずシリコンチップなど多様な物理的状態によって実現される機能状態だと考えるのである。
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@973
学校の語源をたどると、余暇やゆとりという言葉に行き着くのであり、学問は人々が世俗的関心から離れた自由な時間をもつことによって、おのずから発展すると考えられていたのである。
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@988
当初、このuniversitasは修道院の片隅を借りたり、晴れた日は橋のたもとで講義が行われていた。つまり、成立当初の大学には、今日の大学のような教室や図書館や食堂などの施設は何もなく、あるのは学生と教師の共に学びたいという情熱だけであった。このことは、大学の原点を考える上で忘れてはならないことである。
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@1015
machineという言葉は、ギリシア語では「メカネ」、ラテン語では「マキーナ」に当たるが、これは「てこ、輪軸、滑車、くさび、螺旋」などの単一機械と呼ばれる道具を指していた。これらは自由市民が手にすべき道具ではないと考えられており、プラトンは『法律』の中で、「市民は誰ひとりとして、職人の仕事に従事してはなりません」(参照文献6‐2、846D) と述べている。
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@1154
結論は前提のうちにすでに暗示的に含まれていたものを明示的に取り出したものにすぎず、演繹法によって知識を拡張すること、すなわち新しい知識を獲得することはできない。
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@1186
帰納法の妥当性を保証する自然の斉一性の正しさを論証するために帰納法を必要とする」こととなって循環論法に陥る。このようにして、論証方法としての帰納法の正しさを根拠づけることは、「帰納法の正当化」の問題として多くの哲学者が挑戦してきたが、残念ながらいずれも成功はしなかった。
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@1268
新たな理論や法則を発見する場面では、論理的推論だけに頼るわけにはいかない。むしろ、アナロジーやメタファーなどの非形式的推論、あるいはパースのアブダクションのような人間のイマジネーション(想像力) やクリエイティビティ(創造力) に関わるような別の発想力が、新しい発見や既成の理論を打ち破る大胆な発想へとつながっていくのである。それゆえ、方法論はたしかに科学研究の中で一定の役割を果たしてはいるが、科学はそれだけで発展するものではない。科学研究は数式や論理的推論で凝り固まった融通のきかないものではなく、科学者の自由な想像力と創造力が羽ばたく余地のあるダイナミックな精神活動である
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@1323
決定論的自然観も一つの困難な問題を抱えていた。というのも、決定論的自然観が貫徹されるならば、人間は自由意志をもたないことになってしまう
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@1362
数学者ヒルベルトが『幾何学の基礎』の中で、非ユークリッド幾何学とユークリッド幾何学とは同じ権利をもった同等に妥当な幾何学であることを明らかにした
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@1458
熱現象を支配していたエネルギーの均等分配の法則の成立が疑われるという事態は、ケルヴィン卿の講演から半年後にドイツの物理学者M・プランクが「量子仮説」を提起したことによって解決へと向かう。古典力学では、エネルギーなどの物理量は連続量と考えられていたが、プランクはエネルギーが離散的な(とびとびの) 値をとるという大胆な仮説を公表した。つまり、エネルギーに最小単位(量子) があり、エネルギーはその最小単位の整数倍の値しかとらない、という仮説である。これは古代ギリシア以来の「自然は飛躍せず」という自然観を根本から覆すものであった。
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@1467
先に述べた「ラプラスのデーモン」においては、すべての物体の位置と運動量を力学の方程式に代入して計算することで、あらゆる未来の出来事を予測できる、という決定論的自然観が描かれていた。しかし、量子力学の理論が整備されるにつれて、こうした決定論的な古典物理学的世界像が文字通りには成り立たないことが明確になった。量子力学の理論によれば、ミクロな世界の法則には常に確率が介在しており、粒子の位置と運動量は確率的にしか記述することができない。
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@1475
宇宙は単純な法則によって貫かれているという信念を一貫してもち続けたアインシュタインにとっては、確率を導入せざるをえない量子力学は不完全な理論としか思われなかった。それゆえ彼は「神はサイコロを振らない」と述べ、量子力学の欠を補う「隠れた変数」の存在を主張したのである。
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@1563
科学の中にはいかなる深さも存在しない。いたるところが表面である。人間にとってはすべてが到達可能であり、人間こそが万物の尺度である。科学的世界把握はいかなる解決不可能な謎も知らない」(
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@1613
このきわめて明快な「検証可能性」という基準にはさまざまな欠陥があることが、その後の議論によって明らかとなった。たとえば、われわれが実験的に検証できるのはたかだか有限個の事例だけであって、「すべてのSはPである」といった無限個の事例を含む全称命題の形をした科学法則を完全に検証することはできない。したがって、検証可能性という基準のもとでは、科学法則すらも無意味な命題とされてしまうのである。こうした困難を回避するために、ウィーン学団のリーダーであったカルナップは、検証という強すぎる概念を「確証(confirmation)」という確率に言及する概念で置き換えることを試みた(
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@1629
自然科学と社会科学、さらには人文科学までをも一つの方法によって統一しようという統一科学運動の背後にあるのは、物理学の方法を基盤とした還元主義の思想である。たとえば、人間の集団である社会は個人間の関係の総和でしかないと考えるならば(これを「方法論的個人主義」という)、人間の集団を扱う社会学の法則は個人の心理を扱う心理学の法則によって説明可能であることになる。こうして、社会学はより基礎的な分野である心理学に還元され、さらに人間の心理状態が生理的状態によって規定されているとすれば、心理学の法則はより基礎的な生理学の法則に還元されることになる。このように遡っていけば、生理学は生物学へ、生物学は化学へ、化学は物理学へ、という形でその説明レベルをより基礎的な分野へと還元できるように思われる。このような「還元主義(reductionism)」と呼ばれる考えこそ、すべての科学を方法的に統一しようとする「統一科学運動」を支えていた理念にほかならない。
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@1707
反証は検証とは異なり、たった一つでも反例(counter-example) が見つかれば、もとの仮説の誤りを立証できるのである。この事実は、一般に「検証と反証の非対称性」と呼ばれている。
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@1712
科学の本質は、推測によって大胆な仮説を提起し、その仮説をあらゆる科学的手段に訴えて反駁しようとする、この推測と反駁の繰り返しにある、というのがポパーの科学観である。
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@1736
反証可能性とは「当の仮説と矛盾する観察命題が論理的に可能であること」を意味する。
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@1738
反証可能性が高ければ高いほど、その仮説は「科学的」であり、逆に反証可能性が低ければ、それは「非科学的」な仮説であると主張する。
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@1759
ポパーによれば、真に科学的な理論・仮説とは、反証されるリスクを冒して大胆な予測をするものなのである。
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@1784
知識の成長は、ダーウィンが「自然選択」と呼んだものと非常によく似た過程──つまり仮説の自然選択──の結果である。われわれの知識はつねに、生存競争──不適当な諸仮説を排除し取り除く競争的な闘争──にこれまで生き残ることによってその(比較的な) 適性を立証した諸仮説から成っている。
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@1791
一つの問題がある。というのも、ダーウィンの進化論それ自体は反証可能な理論ではないからである。進化論は、過去のさまざまな生物種の変化については説明を与えてくれるが、これから種がどのように変化していくのかを予測することはできない。つまり、テスト命題を提起できないのである。したがって、進化論自身の科学的身分が問題とならざるをえない。
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@1853
われわれはもはや「二つの語の意味が同じだからこの定義は正しい」とか「二つの語が同義的であるからこの定義は正しい」のように、再び「意味」や「同義性」といった未解明の概念に訴える仕方で答えるほかはないであろう。つまり、分析的真理を規定しようとする試みは、結局のところ堂々めぐりの循環論法に陥らざるをえない。
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@1997
この写真をアルファ崩壊や陽子の飛跡として見るためには、あらかじめ物理学の専門的知識や理論を学んでいなくてはならない。医師がX線写真から肺ガンの徴候を読み取る場合も同様である。したがって、観察という行為は広い意味での理諭的背景を前提として行われている、と言うことができる。われわれは観察を一定の理論を背負いつつ、理論の色メガネをかけて行っているのであり、これが「観察の理論負荷性」と呼ばれる事柄である(
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@2003
逆に、理論的背景からまったく独立な純粋無垢の観察、あるいは純粋な観察によって記述される「生の事実」なるものは存在しない、
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@2006
観察は理論の正しさや誤りを検証したり反証したりするための、理論から完全に中立的な基盤とはなりえないであろう。すると、観察事実によって理論が正しいか否かの審判を行うことはできなくなり、単純に理論が観察事実によって反証され、打ち倒されるとは言えないことになる。それでは、理論は何によって打ち倒されるのか。この問いに対して、ハンソンやクーンを含む「新科学哲学」の立場は、理論は別の新たな理論によって打ち倒される、と答えるのである。
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@2096
クーンの強調点は、パラダイム転換の前と後では同じ概念や用語が使われていても、それぞれの概念の意味が異なっているはずだ、という点にあった。たとえば、ニュートン力学と相対性理論では同じ「時間」、「空間」、「質量」といった概念が使われているが、そこでは明らかに意味の変化が生じている。
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@2111
ポパーが真理という最終目標に向かって科学は連続的に進歩していくと考えるのに対し、他方のクーンは「真理」という言葉はパラダイムに相対的にしか適用できないと考える。たとえば「証明」に関して言えば、ピュタゴラスの定理は平行線公準を認めるユークリッド幾何学の公理系では証明できるが、平行線公準を否定した非ユークリッド幾何学の公理系では証明できない。つまり、ある定理を証明できるかどうかは、どのような公理系を採用するか、という証明の枠組みに相対的に決まってくるのである。
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@2198
戦前にはアインシュタインの相対性理論がユダヤ人によって発見されたという理由だけで排斥され、ナチスによって「アーリア科学」が唱道されたり、旧ソ連ではメンデルの遺伝子説が「ブルジョア遺伝学」として否定され、環境因子を強調するルイセンコ学説が称揚されるといった事実が存在したのである。
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@2321
国語辞典には「科学技術」は一語として登録されているし、少し前までは「科学技術庁」という官庁も存在していた。一九九五年には「科学技術基本法」という法律すら制定されている。しかし、英語をはじめとする欧米の言語には、この「科学技術」に相当する言葉は存在しない。
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@2377
ナチスが原爆を開発中であるという情報に基づき、最悪の事態を回避するためにアメリカにおいても原爆開発を進めるべきだという提言書をアインシュタインやシラードなどの物理学者が当時のアメリカ大統領ルーズベルトに送ったことがきっかけとなって始められた。
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@2402
政府が科学研究に対して資金援助を行い、プロジェクトの達成を目指すというシステムは「ブッシュ主義」と呼ばれる
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@2432
通常「科学者」という言葉でイメージする「白衣を着て実験室で試験管を振っている」という研究者の描像は、このアカデミズム科学によって形成されたものにほかならない。初期のノーベル賞受賞者であるキュリー夫人やアインシュタインらの科学研究は、純粋な好奇心に動機づけられ、その研究成果は科学者個人の単著の形で発表されるという意味で、このアカデミズム科学の典型に属するものと言うことができる。  ところが、二十世紀後半になるとアカデミズム科学は次第に産業化科学へと変貌を遂げ、科学が軍事や産業と結びついて政府や企業から巨額の資金援助を受けてプロジェクトを推進するという研究方式が主流となるにいたる。
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@2450
自ら研究を手がけることよりは、次々と新たな研究契約をとってくることに専念せざるをえない。ラベッツによれば「このような人物は「科学者(scientist)」というよりは「科学企業家(scientific entrepreneur)」と呼ぶのがふさわしい」(参照文献 14‐5) のである。
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@2525
沈黙の春』は大きな反響を呼び起こし、その後の地球環境問題の原点あるいはバイブルと呼ばれることとなる。
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@2574
科学や技術それ自体は良いものでも悪いものでもなく、包丁や劇薬と同様に、それを使う人次第で良くも悪くもなるという「科学技術=両刃の剣」説である。しかし、現代社会では次第にそのような単純な考え方は成り立たなくなっている。
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@2577
現代の科学技術はそのような単機能の道具ではなく、多様で複雑なメカニズムによって動いており、その帰結や影響を前もって予測することが甚だ困難な代物なのである。したがって、科学技術の善意の使用が悪しき結果をもたらす可能性は十分にありうる。
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@2590
医薬品・食料品・工業製品についてはわが国では一九九五年に「製造物責任法(PL法)」が制定され、製造物の欠陥によって生じた生命・身体・財産への人的被害に対しては製造者が損害賠償などの責任を負わなければならないという原則が確立されている。近年では遺伝子スクリーニングによる社会的影響やウイルスなど病原体研究のテロへの転用など、次第にそれが知識に対しても適用されねばならないような事態が起こっている。
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@2609
科学者は、研究を外部から規制されることに対し、学問の自由に対する侵害として強い反発を示すことが多かったことを考えれば、専門家集団としての科学者が自分たちの研究内容の潜在的危険性を自覚し、それに対して自主的に予防規制を行ったことは画期的な試みであった。  実際、この会議で合意が得られた、組み換えDNAをもつ生物を実験室の外部へ放出できないようにする「生物学的封じ込め」と「物理的封じ込め」という方法をもとに、アメリカ国立保健局(NIH) は組み換えDNA実験のガイドラインを作成しており、これが現在の生命科学研究の国際的基準となっている。
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@2620
日本では二〇〇〇年十二月に「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」が成立した。また、現在ではヒトを対象とする医学・生命科学研究については、前もって研究機関内の倫理委員会の承認を得ることが必須となっている。このように、社会的に承認される研究とそうでない研究とが厳しく区別されるようになっており、科学者は自分の好奇心に任せて自由に研究を進めてよい、というアカデミズム科学の原則はもはや通用しない時代に入っていると言ってよい。
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@2639
U・ベックは『リスク社会』(邦訳『危険社会』) において、現代社会の最重要課題を「リスク」という概念に求めた。科学技術に「絶対安全」ということはありえず、それは必ずリスクをどこかに抱え込んでいる。貧困は排除することが可能だが「原子力時代の危険はもはや排除することはできない」(参照文献 15‐6) のである。
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@2652
現代社会は「組織化された無責任」の体制によって運営されている、と指摘する。
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@2666
最近では「予防原則(precautionary principle)」という考えが提唱されるようになってきた。これは、科学的に因果関係が実証されていなくとも、人間の健康や環境に悪影響を及ぼすおそれがある場合には予防措置がとられるべきである、という原則にほかならない。逆にいえば、「科学的証拠が不十分であることを、規制措置の実施を控える理由とすべきではない」(参照文献 15‐8) ということである。
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@2680
専門家と非専門家が共にテーブルについて議論しあうという試みが「コンセンサス会議」という形で始まっている。
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@2740
現代の科学技術は使用者の善意・悪意にかかわらず、否応なく社会的リスクと表裏一体のものなのであり、その意味で「価値中立的」ではありえない。
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@2763
安全神話は、「安全であるべし」という当為を「安全である」という事実とすり替え、事実判断と価値判断を意図的に混交することによって形作られてきたものである。
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@2834
で「GRAINN技術」とは、ゲノミクス、ロボット工学、人工知能、神経科学およびナノテクノロジーの頭文字を組み合わせたものである。
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@2862
リスクの「空間的・時間的な限定不可能性」、「責任の所在の特定不可能性」および「被害の補償不可能性」の三つ
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@2870
リスクの分配に当たっては “NIMBY(Not in my backyard)” という原則が働きがちである。リスクの分配は避けられないが「私の裏庭だけはいやだ」という総論賛成・各論反対の立場
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@2896
原発は、そこから放出される高レベル放射性廃棄物(いわゆる核のゴミ) の処理方法さえ完成していない不完全な技術である。
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@2897
原発のリスクは、受益者である大都市圏ではなく、人口も電力消費量も少ない遠隔地城に偏在して
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@2901
原発による発電の恩恵を享受するのは電力を消費する現存世代であるが、その負債ともいうべき放射性廃棄物の処分と安全管理は未来世代へと丸投げされている。
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@2918
世代間倫理をどのような形で実現すべきかについては、きわめて難しい問題が存する。通常の人間社会の倫理は顔の見える現存世代の間の「双務性、相互主義(reciprocity)」を特徴とする。すなわち、自分が殺されたくなければ、他人も殺してはならない、というわけである。それに対して世代間倫理は、未来世代がいまだ不在であり、彼らとの間に契約を結ぶことができない以上、「片務性」を特徴とせざるをえない。しかもそこには、加藤尚武が指摘するように、民主主義の根幹に関わる問題が孕まれている。
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@2926
多数決という制度は、現在世代の合意がたとえ未来世代に大きな負担を強いるものであったとしても有効である、という原則を含んでいる。(
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@3131
本書の原型は、二〇〇四年度から四年間、放送大学の講義としてラジオ放送された科目「科学の哲学」のために作成された印刷教材である(『
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