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Author:ウエイン・W・ダイアー、渡部 昇一

Title:自分のための人生―――一日一日「自分を大事にして生きる」生活術 三笠書房 電子書籍

Date:月曜日 1月 28, 2019, 74 highlights

@15
人生のあらゆる問題はすべて自分で選択、解決することができる ということである。  その場合の選択とは、普通に選択できないものと考えられているような自分の感情や、幸福を選び取ることも含まれる。
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@25
感情は外に原因があって起こるものであり、自分で選択できないもの、と思われやすい。  ここで、 感情や幸福も選択できる というのがダイアーの主張するところである。
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@50
自分の頭脳自体が自分ではないと考えるところまで行かなければいけない。  自分の脳を自分だと思うから、脳に起こったことは自由にならないものだと思いやすい。  しかし、脳というものは自分が自由に使えるもの
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@58
自分は数学に向いているか、向いていないかを断定することはできないし、断定する必要もないのである。
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@60
やればできるという可能性はそこに残しておいたほうがよい、
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@111
やりたいことをやらないで死んだ人がいかに多いことか。それを考えると、 今やれるのにやらないで延ばすというのも、現代に特有の誤った考え なのである。
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@125
楽しみの先延ばしで子どものころ成功した記憶、たとえば高校時代にスポーツや何かを犠牲にしていい大学に入った。その喜びに味をしめ、一生楽しみを先延ばしにしたままで消えるという感じの人も少なくない
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@127
完全を求めて何もできなくなるということがあまりにも多い
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@240
「もし私の一生がすべて誤りだったとしたら……」   以前には到底考えられなかったことが、つまり人生を過ごすべくして過ごしてこなかったということが結局のところ真実なのかもしれないと、ふと思った。これまで、ほとんど感じとれない程度の衝動は即座に抑えつけてきたが、そういう衝動のほうが本物で、それ以外は偽物だったのではないか。職責も、生活や家庭の切り盛りも、社会的あるいは職務上の関心も、みんな偽物だったのかもしれない。   こういうものを一切合財しっかりと守ろうとした私は、突然自分が守っているもののもろさを感じた。守るべきものなど何もなかったのだ……。
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@290
自分の感情はただ「フッ」と湧いて出るものではない。   感情はものごとへの一つの反応としてみずから選び取るもの である。自分自身の感情のあり方をよくつかんでいれば、自滅的な反応を選ぶ心配はない。  自分がこう感じたいと思うがままに感じられるようになれ
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@293
感情は生体の状態としてではなく、選択の対象としてとらえられているからである。これこそが個人の自由の神髄である。
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@295
感情は自分の力ではどうすることもできない」という考え方は論理的に破綻している。  簡単な三段論法を用いて明らかにしてみよう(
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@347
誰かが死んでも人は不幸にはならない。死んだという事実を知らないうちは、不幸になりようがない。  つまり、 不幸の原因となるのは死そのものではなく、そのできごとに対する自分自身の思い なのである。
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@360
「感じ方は自分しだいでどうにでもなるけれど、私は自分から腹を立てるほうを選んでしまったんだ」 「私は自分の意思で腹を立てているんだな。自分の怒りをぶつければ、他の人たちを操ることができるから」 「私は自分のせいで不愉快な思いをしている」
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@392
現在身についている習慣は、これまでの生活でしだいに強化され、習得されてきたものだ。   自分でも意識しないうちに不幸になったり、腹を立てたり、傷ついたり、イライラしたりするのは、それまでの長い期間を通じてそういう考え方をするようになっていた
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@425
自分の心をコントロールするよりも狂気の道をたどる人もいる。また、憐れみをかけてもらって得るもののほうが幸福の報酬より大きいからという理由で、ただあきらめて悲惨な人生に屈する人もいる。
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@493
私たちを取り巻く文化は、今というときをあまり強調しないという点である。  将来に備えよ、あとのことを考えてから行動せよ、快楽主義に陥るな、明日のことを考えろ、退職後の計画を立てろ。
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@496
私たちは絶えず、未来のために現在を犠牲にするように慣らされている。
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@497
いざ未来がやってきてそれが現在になると、その時をさらに次の未来の準備のために使わなければならなくなる
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@510
読書という儀式を執り行なっていただけで、その間、時間は前の晩の映画のことを考えたり、次の日の試験の心配をしたりするのに費やされていた
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@517
「現在」から逃げる人がよくやるのは、未来を理想化することだ。  今はくすぶっているけれど、そのうちいつかは奇跡的な瞬間が訪れ、人生が変わり、すべてがあるべき位置に落ち着き、幸せになれる。  卒業、結婚、出産、昇進など何か一大事業を成し遂げたとき、本格的な人生が始まる……。
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@568
自分の心は間違いなく自分のものであり、自分の感情は自分でコントロールできると絶えず心の中でくり返す必要がある。
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@576
この社会では多くの人たちが、自分自身を愛するのはよくないことだという考えを抱いて大人になった。もっと他人のことを考えなさい、と社会は教える。隣人を愛せ、と教会は説教をする。
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@644
適性とは、学習すべき課題を習得するのに要した時間の総和である。この公式的記述が暗に示しているのは、十分な時間が与えられれば、どんな生徒でも課題を習得できるという仮説である。
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@699
何であれ、自分をおとしめるような行為をすれば、そのたびに、自己愛であれ他の人と分かち合うものであれ、愛情を得る機会を減らしてしまうことになる。
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@711
一つ単純な質問をしてやると、たいがい、この無益で不愉快な態度は消えるものだ。「なぜ私にそんな話をするのですか」とか「何か、私でお役に立てるようなことがありますか」と尋ねるのだ。  同じ質問を自分自身に対してしてみると、不平を言うのは最低の愚行だということがわかってくるだろう。
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@726
不平を言えば人の注意を引くことができるかもしれないが、そうやって注がれた人の視線という光は、自分自身の幸福の上にくっきりと黒い影を落とす
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@736
「今夜口にされた不平のうち、何らかの成果を挙げたものが、いくつかあっただろうか」  そうして、次にグチをこぼしそうになったとき、この夜のむなしさを思い出してみることである。
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@758
心からの愛情を抱く人がいたら、傷つくことを恐れている自分を励まして、正面きって「大好きだ」と言う。
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@829
つき合いのあるグループの中を、自分自身の心を持たないまま動き回っている。 人から賛同を得たいばかりに、人から好かれようとしていつも自分の本心を隠している のだ。  これではAさんという人間は存在しない。
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@963
自分の立場を変えたり弁明したりするのではなく、こんな具合に答えてみるのだ。 「お父さん、あなたは少し気が立っている。お父さんは私の考え方がまちがっていると思っているのですね」  このように客観的に見ることで、反対するという行為の主体は父親であって自分ではないという事実を心に留めておくことができる。
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@982
大勢の人が自分を理解してくれることはないだろう。しかし、それはそれでかまわないというシンプルな事実を受け入れる。
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@991
許しを求めることは、承認や同意を求めることなのである。
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@1047
「これからも、今までどおりの流儀でやっていくつもりだ」  しかし、自分を過去に結びつけている綱をほどき、今までと変わらない自分でいるための表現をやめていくことはできる。
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@1064
「私は○○である」という表現のほとんどは、以前、人に何か言われたことがどこかに引っかかっていて、それが外に出たもの である。
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@1095
この「私は○○である」は、自分が今後変わっていくのに必要な努力は払わないということの宣言になる。こういう分野に関して「私は○○である」を使うのは、もともと難しいとか退屈だとか思っていた科目をマスターするといったような、大変な仕事をしないですまそうというのが目的である。  自分には才能がないというレッテルを貼っている限り、それに取り組まずにいられるからだ。
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@1133
たとえばスポーツ大会、連れ合いに先立たれたあとでのデート、旅行などの活動に際して、ただひと言「年だから」と言っておけば、何か新しい成長をもたらすようなチャレンジをしなくてすむ。
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@1145
ある若者が自分は内気だと思い込んだままパーティに出かけるとする。その若者は内気な人間のようにふるまい、そのふるまいがさらに自分のイメージを裏づけることになる。まさに悪循環である。
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@1217
「私はお前の犠牲になった」という言い方は、自責の念をうながす非常に効果的な手段である。
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@1237
「もし私を愛しているなら」と言って自責の念を起こさせるのは、恋人を操る一つの方法である。
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@1243
相手方が浮気をした場合、よく用いられる手である。  そしてその事件から何年もたってから、当時の行動を引き合いに出すことも往々にしてある。 「三年前に何をしたか、忘れないでね」「前に痛い目にあっているのに、もう一度君を信用するなんてできると思うかい?」など。
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@1247
もし相手が過去のことをすっかり忘れてしまっていたら、定期的にその行為を持ち出して自責の念を忘れられないようにすればよいのである。 「あなたに責任感があれば、ちゃんと家に来たはずよ」とか、「君がごみを捨てるべき日を忘れたのは、これで三度目だ。自分の当番の約束も守れないのか?」  目的は?  相手を自分の望みどおりにコントロールする こと。  方法は? 自責の念である。
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@1272
自責の念を起こさせる態度に出たら、今までとは違う答え方をするのだ。 「いいよ、母さん。ほんの二、三分が待てなくて、いすのために腰を痛めてもいいって言うんなら。僕には、どうしようもないよ」  一度言っただけでは効き目がないだろう。少し時間はかかるだろうが、無理に自責の念を起こさせることはできないとわかれば、相手の態度も徐々に変わってくる。
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@1296
「私はこう思う」と言う代わりに「お母さんはこう思っている」という言い方をしているので、自責の念を覚える可能性が最小限に留められている。
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@1353
不安が自分の人生の大部分を占めているなら、必ず過去にそれなりの事情があるはずである。  それにしても、不安を抱くことの“メリット”とは何か。  不安を抱くというのは現在にかかわる行為である。だから、未来にとらわれて、現在というときを身動きできずにいるとすれば、それは 現在から逃れ、今、自分を脅かしているあらゆるものから逃れることができる わけである。
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@1367
不安を理由に活動しないでじっとしているのは、頭のいいやり方だし、不安な気持ちでいるほうが、活動的に何かに打ち込むことより、得るものは少なくても、明らかに楽 なのである。  不安を理由にできると、無理に冒険をしなくてもいい。
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@1376
健康でいるよりも、人から同情してもらうほうがいいという人も中にはいるのだ。
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@1381
不安な状態にあるときにかぎってタバコの量が増え、その不安を理由に禁煙しないという人もいる。
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@1384
「私はこの瞬間を不安のために使ってしまっているけれども、いったい何から逃げているのだろうか」  そして、自分が避けているものが何であれ、それに取り組むことだ。  そう、 不安に対するベストの対抗手段は「行動」 なのである。
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@1412
不安を 拭い去るもっとも強力は武器は、自分の人生において、前に進もうというみずからの決意
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@1418
多くの人は、「安全」に関するエキスパートである。  つまり、未知のものを避け、常に自分はどこへ行こうとしているのか、そこに着いたら何が期待できるのかを把握していることが大事だと考えている。
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@1420
私たちの社会における教育は、好奇心よりは慎重さを、冒険よりは安全を奨励する傾向にある。疑わしいことは避けなさい、自分が知っている範囲内に留まりなさい、知らないことに足を踏み入れてはいけません。……
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@1435
安全にやれ、危険を冒すな、地図に従え──たとえ何の進歩もしなくても──というわけだ。  どんな一日になるのか、もうその日が来る前からわかっている──そんな確実性に、あなたは飽き飽きしはじめてはいないだろうか。
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@1439
私たちは一生涯、確実性を奨励する声を聞いて過ごす。  まず家庭で始まり、教育者によっていっそう強化される。
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@1474
何かをするには理由がなくてはならないと思い込んでいる向きもあろう。 「いったい何のために?」というわけだ。  バカバカしい! やりたいことなら何をやってもよいのだ。
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@1495
イエス・マンは自発的な人間ではない。未知のことを極端に恐れているだけである。彼らは他人に合わせ、言われたことだけをやる。決して挑戦したりせず、自分に期待されたことをかたくなに守り抜くのである。
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@1501
一万日、もしくはそれ以上の日々を本当に生きてきただろうか。  それとも、一日生きることを単に一万回、あるいはそれ以上くり返してきたのだろうか。
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@1504
偏見(prejudice)とは、つまり「先に判定してしまうこと(pre-judge)」である。
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@1507
偏見を持っていたほうが自分にとって有利に思える。何せ、偏見のおかげで未知の、もしかしたら迷惑にもなりかねない人やものや考えは寄せつけずにすむのだから。
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@1640
明らかに無意味な結婚生活を続ける。  未知の世界、すなわち独身でいることに対する恐れゆえである。独身のころの状態がどんなものかを思い出せないので、一人だとどういう状況に身を置くことになるのかわからないのだ。
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@1756
四分の一の人は自分の感情に対して自分で責任を取り、四分の三の人は外的なものにその責任を転嫁する。
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@1844
他にもっとベターな行動があるかもしれないのに、「こうしなければならない」と思うやり方で行動している自分に気がついたときは、「ねばならぬ症候群」にかかっているということ。
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@1900
自分の人生の中で、自分が(そして他人が)装っている「役割」を捨てること。  男だから、女だから、中年だからこうすべき、という態度をとるのではなく、自分が「そうありたい」と思うような人間であればよい。
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@1967
私は先延ばし行為を「“今日”を避ける 術」 でもあると言いたい。  誰しも、自分から進んでやりたいと思っていることがあるものである。ところが、やろうやろうと自分に言い聞かせているにもかかわらず実行できない。
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@1984
先延ばしばかりしている男がいた。いつも、あれもやろう、これもやろうと計画を立てることばかりに忙しく、自分にはやるべきことがこんなにあるのだと吹聴し回っていた。
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@1987
頭の中には膨大な数の計画が詰まっているのだが、どれ一つとして実行しないのである。  彼は毎晩寝る前になると、明日こそはこの仕事を完成させるぞと誓いを立てては、自分をごまかしていた
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@1999
実行しない人間というのは、往々にして「批評家」である場合が多い。  つまり自分では何もしないくせに賢者 面 をし、実行する人のことを傍観しては、そのやり方にいちゃもんをつけるのだ。   口だけの批評家になることは簡単であるが、実行者になるには努力がいる。
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@2019
多くの人は、退屈を「環境」のせいにしたがる。  たとえば、「この町は本当につまらない町でね」とか、「何とまあ、あいつはおもしろくない男だ」などと言うのだ。  しかし、町そのものや、相手がおもしろくないのではなく、退屈でつまらないのは退屈を感じている本人なのだ。そのとき、自分の頭や身体を使って何か手を打つことができれば、退屈しなくてもすむのだから。
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@2071
現在先延ばしにしていることを今すぐ実行に移したら、起こり得る最悪の事態とはどういうことだろうか」と自問してみる。答えはたいしたことのない場合が多く、たいていはすぐに行動に移せるもの
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@2161
怒らせてしまったほうの人間はオドオドするかもしれないが、その反面、自分が相手の気に入らないことをすれば、いつでも思いどおりに相手を怒らせることができるのだ、と気づくのである。  そこで、これを利用してこっちも復讐してやろうということになる。
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@2195
健康な人たちに共通して見られる特筆すべき特徴は、おそらく「ユーモアを愛している」 ということかもしれない。
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@2308
人生に対してきわめて積極的で貪欲である。散歩、映画、スポーツ、コンサート……何でも好きである。都会も牧場も山も、それに動物も好きである。人生すべてが好きなのだ。  こういう人のそばにいると、彼らは不平を言ったり、ため息をついたりしないことに気づくだろう。雨が降れば雨が好きだと言い、暑ければ暑いのもいいと思う。
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@2509
彼らは退屈するということを知らない。彼らにとっては 人生のあらゆるできごとが、行動や思考や感動をうながすいいチャンス である。
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@2551
向きになって幸福を追求するのをやめてみたら、「日常生活のすべての営みが幸福を含んでいる」ことに気がついたのである。
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