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Author:竹田青嗣

Title:ニーチェ入門 (ちくま新書)

Date:火曜日 10月 2, 2018, 58 highlights

@65
資本主義は、その本性として国内の市場を超えて絶えず外側に新たな市場を必要とする。だから資本主義国家は、市場と利権を求めて侵略的にならざるをえない。近代国家が資本主義経済を基礎とする以上、必ず、国家権力の絶えざる集中化とそこから生じる他国との絶えざる戦争行為が必然的となる。
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@187
彼のはじめの直観は、あらゆる「禁欲主義」には〝自己欺瞞〟がつきまとっているということだったかも知れない。
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@315
医者が風邪の患者を治すために「ゲン」をかついで、注射の場所を手にしたり足にしたりするとすれば、誰でも嗤うだろう。しかし相撲取りが「ゲン」をかついで髭を剃らなかったり、特定の言葉を口にしなかったりするのを怪しむ人はいない。
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@319
人間は自分の運命を左右するあらゆる事象についてその「原因」を想定せずにはおれない本性を持っているということだ。それを哲学的に引き延ばすと「根本原因」という概念になる。
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@425
欲望する存在としての人間は矛盾に満ちている、しかし それにもかかわらず、この欲望の本性は否定されるべきでない」。このニーチェ独自の直観
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@496
ニーチェにおいては、このような「真理」の観念こそヨーロッパ形而上学を貫く最大の〝迷妄〟なのである。
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@547
人間は、自分の「自由」を実現するためには、結局他者を認め、他者との関係の中で自分の存在意義を確立していく他に道がないことをはっきりと学んでいくような存在なのである、と。  こうして、ヘーゲルによれば、人間とは、自分の存在の本質を深く 理解 することによって、はじめて「善きこと」を 意志 するような存在となる、ということになる。
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@591
ルソーの人間」は、「自然こそが善である、自然に帰れ」と叫ぶが、このとき彼は自分自身を超え出たものに強く「憧れて」いる。この人間類型では、現実への強い否認と「本来的なもの」への激しい憧れがその特質をなしており、ここからしばしば激烈な革命への希求が現われる。
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@669
たとえば世界中で日々夥しい小説が生み出されているけれど、ほんとうに優れた小説はその中のごく一部である。つまり、優れた文化は、いつでも広範な〝本物ではない〟文化的底辺を土台として存在しているといえる。だからこういう批判は、いわばしようと思えば誰でもがいつでもできるような批判なのである。
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@687
ニーチェは主張する。  なぜ「個々の偉大な人間を産み出すこと」が必要なのか。そこに人間の種がより「高次の種へ」移行する大きな可能性があるから
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@714
文化の本質は何か。この問いに対してニーチェは非常に明確な答えを返す。つまり文化とは、単に人間の生活を便利にあるいは快適にするためのものではない。それはむしろ、人間のありかたをつねに「もっと高い、もっと人間的なもの」へと向かわせるための、いわば励まし合いの〝制度〟なのだ、と。
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@717
キリスト教、ナショナリズム、民主主義、近代哲学、それらは彼に言わせればすべて人間の精神を「高く」するのではなく、むしろ「低く」する(=
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@735
もともと人間が頭の中で考え出したものにすぎない。「ありもしないもの」を目標としないこと。では何が目標となるか……。とうぜん、「人間」それ自身が、「人間の生それ自身」が目標となるのでなくてはならない。
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@737
「より高い人間(種)」の創出、これがニーチェの設定した歴史の目標だが、その理由は、この目標それ自体が狙いなのではなく、この目標の設定において、人間の生それ自身がつねに「もっと高い、もっと人間的なもの」へなりゆくようなかたちをとるからである。
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@763
徹底的に疑い批判するという点では、ニーチェほど鮮やかにそれを行った哲学者はいない。というのは、ニーチェの批判の対象とは、要するに、「これまでヨーロッパにおいて考えられてきた人間的な価値の一切」だったからである。
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@823
人々はこう言う。「よい」の起源は利他的な行為にある。この行為は それを受けた人にとって「よい」ものである。のちにこの起源は忘れられ、ある行為自体(たとえば施し、慈善、犠牲など) が習慣的に「よい」と呼ばれるようになった……。一般にはそう理解されているが、これはじつは全然 間違いである、とニーチェは言う。
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@829
価値判断は、もともとは「よい」ことを してもらった 人間たちから生じたのではなく、「高貴」な者、高位の者、強力な者たち自身の 自己規定として 生じたということを意味する。  つまりまず「高い者」たちが、自分自身に属するさまざまな力の特性を「よい」と呼んだ。そして逆にこのような力を持たないこと、それが「わるい(シュレヒト)」と呼ばれた。これこそ「よい・わるい」という価値の本来的な起源である……。
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@835
この場合の、「自分たちは力を持っている」という自己肯定的な感情にこそ「よい」という言葉の 本質 がある。
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@858
人間が自分の「快」・「悦び」・「エロス」を求めることも、それ自体は「わるいこと」であるとはいえない。それが「わるい」こととみなされるのは、その行為が他人を侵害する場合か、あるいは公共の秩序に反するものとされる場合である。つまり「わるい」の本質は、「他人を害すること」にあるので、個々人が「自分の快や悦びを求めること」自体にあるわけではない。
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@862
人間は誰でもまず「自分のこと」を考える。それが人間という生き物の〝自然性〟である。しかしまた、自分に余裕や力がある場合には「他人のため」に行為しうる生き物でもある。これもまた人間の存在の〝自然性〟である。まず自分のことを気遣い、つぎに他人を気遣う、これが自然な順序である。ところが、キリスト教はこの自然な順序を逆転させてしまう。
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@875
貴族的評価様式」は、「高い者」、「強力な者」から生じた本来的な「よい」の本質を持つ。つまりそれは、「力強い肉体、今を盛りの豊かな、溢れたぎるばかりの健康、加うるにそれを保持するうえに必要なものごと、すなわち戦争、冒険、狩猟、舞踏、闘技、さらにはおよそ強い、自由な快活な行動を含む一切のものごと」(『道徳の系譜』信太正三訳) が前提となるような価値評価である。それは、これら諸力についての 肯定的、かつ 能動的 な自己感情を根拠としている。  これに対して、「僧侶的評価様式」は正反対の性格をもつ。こちらは「高位」で「強力なもの」からではなく、「卑俗で」「弱い」人間たちから出てくる。それはつぎのような推論から現われる。「この猛禽は悪い。だから猛禽とはできるだけ縁のないもの、むしろその反対物、つまり羊こそが、――善いといえるものではあるまいか?」。
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@884
この評価は、 まず「敵(強い者) は悪い」という否定的評価をはじめに置き、 つぎに その〝反動〟として「だからわれわれ(弱い者) は善い」という肯定の評価を作るからだ。
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@886
つまりそれは、弱者の「ルサンチマン」(恨み、嫉妬、反感) から出てくるのである、と。
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@918
では「負い目」(罪責) の起源は何か。「負債」がそうである、とニーチェは言う。借りたものを返せないこと、負った責任をはたせないこと、これが「負い目」の起源である。そして彼は、この債務関係がある共同体とその 祖先 との間に設定され、しかもそれがもはや贖いきれないほど大きなものとなることによって、キリスト教的な「原罪」の観念が現われる前提となる、と言う。
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@923
種族それ自体の権力が増大するにつれ、また種族自体がいよいよ勝利を博し独立を増し尊敬され畏怖されること大となるにつれて、かならず必然的に増大する。(略) こうした素朴な論理のゆきつくはてを考えると、どうなるか。そのときには、 もっとも強力な 種族の祖先は、想像された恐怖そのものの増大によってついに恐るべき巨大なものにまで成長し、神的な不気味さと不可思議さの暗闇のなかに押しやられざるをえなくなる。――かくしてついに祖先のすがたは必然的に一個の 神 に変えられてしまう。おそらくはここにこそ神々の起源が、つまりそれの 恐怖 からの起源が存するのだ!
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@931
ルサンチマンから発した「善悪」という「僧侶的評価様式」をはじめに作り出したのは初期キリスト教である。ただそれは、まだ現実的な弱者としての自分たちを心理的に補償するための思考法にすぎなかった。ところが、パウロによって打ち立てられた世界宗教としてのキリスト教(教会) は、この「善悪」の評価をさらに屈折させて独自の価値の体系を築きあげることになった。  すなわちそれは、個々人が「唯一の神」に贖い切れない負債(罪責) を負っているという考え方を打ち立てたのである。人々はこれによって、自分の存在それ自体を〝疚しいもの〟と考えるにいたる。
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@1000
自分らが本当に禁欲主義的理想から離れられるだけ遠く離れているものと信じている。だが、彼ら自身では目にしえないもの(略) を、はっきり彼らに見せてやるとすれば、この禁欲主義的理想こそがまさに 彼らの 理想なのでもあり、おそらく他の誰でもない彼ら自身こそが今日この理想を体現しているのであり(略)、それのもっとも危険な微妙な捉えがたい誘惑の形態でもあるのだ。――
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@1017
近代科学も近代哲学も、この「絶対的に正しいもの=真理」を追い求めようとする情熱において一致する。そしてニーチェによれば、この〝信仰〟はキリスト教の「禁欲主義的理想」から生じたものなのだ。つまり近代的な「真理」への信仰は、キリスト教の理想の中で育て上げられたものだと言うのである。
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@1159
ルサンチマンを持たない人間は、現実の矛盾をいったん認めた上で、自分の力において可能な目標を立て、あくまで 現実を動かす ことを意欲する。しかしルサンチマンを抱いた人間は、現実の矛盾を直視したくないために、願望と不満の中で現実を呪詛しこれを心の内で 否認 することに情熱を燃やす。
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@1228
ニーチェに、「事実なるものはない、ただ解釈だけがある」という有名な言葉がある。これは、「客観」とか「物自体」とか「世界そのもの」とかいったものはまったく 存在しない、ということである。存在するのは、さまざまな人間が世界に対してさまざまな評価を行うというそのことだけである、と。
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@1240
Aが ある ならば、その反対概念Bもまた ある にちがいないという、理性への盲信的信頼)。こうした推論をなすよう 霊感をあたえるのは苦悩 である。すなわち、根本においてそれは、そのような世界があればとの 願望 である。(『
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@1248
ペシミズムやシニシズムはその逆の思考法なのだ。つまりそれは、「矛盾」や「苦悩」という否定性を恐れるあまり、「快楽」や「悦び」という肯定性のすべてを否認しようとする精神なのである。
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@1515
つまりルサンチマン思想は、「願望と信仰」から、すべての人間が「平等であったらよいのに」、とか、「平等である べきだ」という考え方から身を起こすのだ。そしてこの考え方を追いつめると、見てきたように必ず「生の否定」にまでいきつくことになる。
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@1573
人々のルサンチマンは社会全体としては「欲望の相対性」として現象する。
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@1577
大多数の人間のルサンチマンを巧みに 組織 したもののみが支配者となりえた。このため社会全体が潜在的にはルサンチマンの量を増やしつづけ、しかもそれを打ち消すために一種の平等主義を強く押し出すという性格をいっそう濃くすることになる。
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@1606
何事をするにつけてもかならず、「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」という問いが、最大の重しとなって君の行為にのしかかる
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@1654
抵抗のないビリヤードの台の上でたくさんの球が、摩擦によって力を失うことなく永遠にぶつかり合って動き回っている、という状態をイメージしてみるとよい。時間は無限にあるから、一定の空間の中で一定のエネルギーがその力を減じることなく運動していると、いつかある時点で、以前のどこかの時点で存在したとまったく同じ物質の配置、配列が戻ってくる可能性があるはずだ。すると、その次の時点から、一切が「何から何までことごとく同じ順序と脈絡」で反復することになる、というわけ
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@1723
人間が「有限の生に閉じられている」という観念は、その一方で「無限への憧れ」と有限のうちでの「だからこそ」という意欲を作り出す余地がある。しかし、「一切が永遠に反復する」というイデーは、人間の存在を、宇宙の壮大な自動運動の一部分にすぎないものへとおとしめるのである。
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@1756
に対してニーチェは、世界にどんな超越的な「意味」も存在しないということをいったんはっきりと認めよと言う。そのことによってまずは反動的な理想への回帰を封じる必要がある。
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@1860
つまり、「いつでも君の行為が普遍的に〈善〉であると言えるものであるように行為せよ」というカント的命法の代わりに、「永遠回帰」の思想は、「君の行為が、いつも無限の繰り返しとしてそう欲されるべきものとなるように行為せよ」という命法として提出している
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@1945
世界は永遠に反復する と。もしそうであるなら、誰もつぎのようには言えなくなる。つまり「じつは世界はこうあるべきではなかった」とか、あるいは「私の生がこうでしかあり得ないなら、世界よ滅びてしまえ」とは。  要するに、「永遠回帰」のイデーは、 生の一回性を利用して 世界と生そのものへ復讐しようとするルサンチマンの欲望を〝無効〟にするのである。
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@1980
不遇と苦悩の生を生きた人間はどうなるのか。彼らが自らすすんで自分の生を肯定する要因は、どこにも存在しないのではないだろうか。ニーチェはしかし、その可能性は存在すると言う。  その生において、「魂がたった一回」でも「幸福のあまりふるえて響きをたて」たことがあるなら、つまりたった一度でも、ほんとうに深く肯定できる瞬間があったなら、人は、その瞬間にかけて生の「無限の反復」を欲するという可能性をもっている、と。
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@2023
世界と歴史の時間にはどんな「意味」も存在しないと。そして、 それにもかかわらず 君は生きねばならず、したがって「なんのために」ではなく「いかに」生きるかを自分自身で選ばなくてはならない、と。
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@2067
事実」それ自体なるものは存在しない。ただ「解釈」が、多様かつ無数の「解釈」だけが存在する……。
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@2120
ある対象(事物) が「何であるか」という「認識」は、その対象(事物) に向き合う生命体の「肉体」(欲望 身体) によって決定される。
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@2178
ソシュール言語学が成しとげた「考え方の変換」の簡潔な結論である。だがこの 区分を可能にしたのは いったい何かと問うてみるといい。いうまでもないが、生命体としての人間の固有の「欲望 身体」がその必要に応じてカオスとしての世界に区切り目を入れたのである。
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@2230
中期のニーチェにおける〝裏目読み〟の思考は大変特徴的だが、この発想をせんじつめれば、「人にさまざまな『確信』や『信仰』をもたらしているものは一体何か」という問いになるだろう。
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@2233
じっさいは無数の対立しあう「信念」が存在しているにすぎない。根本的なのは、各人が信じているその内実ではなく、誰もが何かを 信じざるをえない という事実だけである。
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@2240
ニーチェは、この〝人間をして何ものかを信じさせる根本本質〟を「力」と呼んだの
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@2268
根源的事態とは、有機体の「力への意志」がたえず自己自身の拡大を追求しているということであり、この根源性が貫徹される結果として「快・不快」や諸「感情」が存在するにすぎない。
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@2273
意識はまさしく一手段にすぎない、――だから快感ないしは不快感もまたまさに手段にすぎないのである!
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@2274
何で 価値 は客観的に測定されるのか?  上昇し組織化された権力 量で
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@2276
すべての「目的」、「目標」、「意味」は、すべての生起に内属しているただ一つの意志、すなわち権力への意志の表現様式であり変形であるにすぎない。
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@2280
人間が自分の「意識」で作り出すさまざまな「目的」や「目標」や「意味」は、じつは「力への意志」の「より強くなろうと欲すること」、「生長しようと欲すること」という根源現象からの 派生形態 にすぎない。そして「意識」はそのことに気づかない。そうニーチェは
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@2291
ニーチェがかなり強引に人間の「意識」と根本現象としての「力への意志」を 無関係 なものと設定したことにははっきりした理由がある。それはつまり、もし「意識のおぼえる快感不快感にしたがって」生の価値が測定されるのだと言えば、徹底的な自己放棄にも 快 を見出すキリスト教的諸信念を、簡単には批判できなくなるからだ。
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@2380
力への意志」は生の「価値」の根本基準をなすもの、言い換えれば生に 意味を与える 根拠である。
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@2441
ニーチェによれば、美の本質はあくまで「生を肯定する力」にある。したがって芸術の 本性 はあくまで「ディオニュソス的」という概念のうちに見出されるものなのだ。芸術とは「苦悩にもかかわらず」生を意欲するものであって、「苦悩」への反動から生を何らかの「幻影」で覆い隠そうとするようなものではありえない、と。
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@2578
たとえば、「貧しい者こそ幸いである」と説く代わりに「君が貧しければ、まず自分自身のルサンチマンとたたかえ」と説く。また「まず他人のために尽くせ」と説く代わりに、「正義を言いたてる者こそ、最も警戒せよ」と説く。つまり徹底的なアンチ・キリスト、徹底的なアンチ・モラルの書だ。だからそれは最も危険な思想と見なされたりした。
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